沿革

一世紀を超えて受け継がれる、チャレンジ精神と鶴丸廣太郎の熱い思い

鶴丸海運は、創業から100年以上の今日に至るまで、常にチャレンジ精神をもって事業の発展を遂げて参りました。

会社の根底に常にあるのは、「事業を通して社会に奉仕貢献すること、お客様に喜んでもらうこと、従業員へ還元すること」という思いです。

この「灯火」は、100年の時を超えた今日でも変わることなく、受け継がれています。

こちらから鶴丸海運の100年史をご覧いただけます。


【創業から繁栄へ】

~1920年

1909年、国際港としてにぎわう横浜港を出入りする船の景気の良い様と大海原の雄大さに惹かれ、「自分は将来、海にのり出そう、七つの海に、日の丸の旗を立てたい」と決心を固めた19歳の青年がいました。それこそ、後に鶴丸海運の初代社長となる鶴丸廣太郎です。

1911年当時、官営八幡製鉄所の操業と背後に抱える筑豊炭田の石炭積み出し港として、若松港は活況を呈していました。

廣太郎は前年より勤務する遠賀税務署の所長より推薦を受けて、1912年に艀仕事を行う杤木汽船に入社し、海運業への夢に向けての第一歩を踏み出します。
同商店支配人の都留貢の招聘に応じて都留商店へ入社しますが、1920年の八幡製鉄所職員による大規模ストライキが北九州経済に大打撃を与えたことで都留商店が閉鎖となり、廣太郎は職を失ってしまいます。

1921年

8月20日、廣太郎は若松税務署での同僚で腹心の友であった久富友作らとともに、石炭商・海運業「鶴丸商店」を創業しました。

必ずしも準備万全な中での門出ではありませんでしたが、鶴丸海運は大海原へ漕ぎだしたのです。

創業当時の社屋

全国有数の港である若松港では、大小多くの海運業者が軒を連ねていました。
競合の多い環境ではありましたが、船の稼働率を上げて荷主の要望にひたむきに、他社より低価格な物流サービスを提供することで、鶴丸商店は伸長を続けました。

初代社長 鶴丸廣太郎

1923年

9月1日に発生した関東大震災の影響により傭船料が高騰した結果、傭船が多い鶴丸汽船では資金繰りが急速に悪化します。
そうした中で、郷里の人々の支援もあって資金を工面し、自社船「第2深川丸」を購入することで輸送責任を果たし、危機を乗り越えました。
傭船料の高騰という苦い経験を経た廣太郎は、1923年から終戦までに汽船34隻、機帆船17隻を取得し、船団の構築に注力しました。

1931年

満州事変の軍需景気により石炭の需要が急増したことで、取扱貨物量が急増し、経営が本格的に軌道に乗り始めました。

1935年

資本金2,000円の株式会社となり、社名を「鶴丸汽船株式会社」へ改称して、決意新たに海上運送事業の発展に取組みました。

1938年~

企業が事業を営む目的は、社会へ奉仕することだと廣太郎は考えていました。
関東大震災の影響で窮地に陥った自分を郷里の人々が支援してくれたことへの感謝の念から、廣太郎は愛郷心が強く、社会への貢献と援助を惜しみませんでした。

廣太郎氏が公園用地の買取に私財を投じたことが記載されています

1940年~

廣太郎氏は、常に自分にできる社会貢献に対し、最大限取組んでいました。
当時の若松では新しく会社や組合が結成されており、依頼を受けた公職に就任して職務を果たすことで社会への貢献に注力しました。
全国機帆船組合連合会の初代理事長や若松機帆船石炭輸送㈱の社長などに就任し、中央省庁との折衝や各地区組合間の利害調整などで多忙を極める中でも、鶴丸汽船の社長業務にも廣太郎は尽力しました。

機帆船輸送組合の創立総会で挨拶する廣太郎氏

新規の建造船に「八幡山丸」と命名する廣太郎氏

1944年~1945年

1944年11月27日、鶴丸廣太郎は社員寮の玄関先で倒れ、同日午後9時に不帰の人となりました。
享年55歳。戦時の海運業を支え、鶴丸海運の礎を築いた創始者のあまりにはやい逝去でした。

1945年の終戦を迎えた段階で、鶴丸汽船は、戦時中に徴用された船舶約30隻と船員約300名を喪失しました。


【ゼロからの再出発】

終戦を迎え、鶴丸汽船は開業以来積み上げてきた多くのものを失い、再出発を切ることとなりました。

1945年

廣太郎社長の逝去を受けて、鶴丸大輔が二代目社長に就任し、事業の再建や船団の強化に当たりました。

二代目社長 鶴丸大輔

1946年~1955年

船舶の回復を目指す政府の造船政策に追い風を得て、第一次計画造船において宝満山丸(1,996トン)が竣工し、第3次計画造船において鏡山丸(695トン)を新造しました。
同時期、瀬戸内で触雷して沈没していた金立山丸や金山丸を引き揚げて修理し、瀬戸内での石炭輸送にて活躍しました。
この他にも、南アフリカから天拝山丸を、新日本汽船から福知山丸を購入し、船舶を新規で造船するなど、戦争で失った船団の再建に大輔は尽力したのです。

また、初代廣太郎氏の「七つの海に日の丸の旗を立てたい」という想いを引き継いだ大輔は、創業以来初めて、外航海運事業に進出しました。

「鶴丸の白金丸」と名高い機帆船 第2白金丸

南アフリカから購入した天拝山丸

1956年

1950年頃より日本のエネルギーの主役は、石炭から石油へと急速に変化しました。
エネルギーの大転換の中で石炭の需要が急速に減ったことを受け、主要な取扱貨物が石炭であった鶴丸汽船は、大幅な利益減となってしまいます。
しかし、石炭荷役事業に重心を置いた経営状態から脱却するために、鉄鋼や化学機械の荷役・艀回漕やトラック、倉庫、クレーンなどの港湾運送事業を取扱う「鶴丸運輸」が設立されました。
鶴丸運輸の設立は、1955年の若杉山丸の建造に際して、銀行から融資条件として提示されたものでもありました。

 

【時代の荒波を超えて】

1958年

石炭に依存していた取扱貨物からの脱却を図るために、輸入木材の荷役事業に進出して事業の多角化を図りました。

木材荷役の様子

1960年~

「エネルギー革命」、新造船技術である「ブロック工法」の開発、関門国道トンネルの開通など、社会情勢は目まぐるしく変化し続けます。
既存事業の優位性が直ぐにとって変わられる時代にあって、大輔は様々な新規案件への挑戦を行いました。
この時の大輔の挑戦は、現在の鶴丸海運の事業基盤として今でも息づいています。

ブロック工法で建造された「鶴春丸」

1)新しく貨物自動車運送業の許認可を取得し、陸上輸送サービスを開始
高速道路や発電所等の建設ラッシュに合わせて、トレーラーの導入や大阪~東京間でのフェリー航送事業の進出を行いました。
1959年に阪神~小倉間での雑貨定航が開始されたことを受け、小倉での港湾荷役業(陸揚・保管・出荷)を構築しました。

フェリー航送

2)セメントの輸送事業を開始
石炭に依存していた取扱貨物からの脱却を図るために、セメントタンカーを建造してセメント輸送を開始しました。
この時にセメントの荷主となったのは、麻生社や三菱社ら、石炭輸送の時代から取引のある旧知の荷主でした。
石炭輸送で長い間積み重ねてきた信頼や人とのつながりが、エネルギー革命における経営のターニングポイントとして生きていたのです。

3)その他経営の多角化に向けて
物流サービスを充実させるため、事業の充実や多角化を推し進めました。
・大阪・千葉・福岡にて新たに倉庫業のサービス提供を開始
・浚渫船と土運船を建造して港湾土木事業を開始

1964年

セメント船豊鶴丸を新造するための融資条件として銀行が提示したのは、鶴丸運輸と鶴丸汽船の合併でした。
1956年に銀行融資を受けるために港湾部を分けて鶴丸運輸を設立したという経緯があるため、再合併については承服しかねるものがありました。
しかし、融資を見越して造船の発注を行っていたため、早々に融資を取り付ける必要があったこともあり、大輔は銀行が提示した融資条件を全て応諾しました。
これによって、海や陸での貨物輸送を行う「鶴丸汽船」に、港湾での荷役を行う「鶴丸運輸」が合併し、10月1日に「鶴丸海運株式会社」が設立しました。

「鶴丸海運」の本社ビル

1965年~1968年

創業当時の鶴丸海運は、鶴丸汽船と鶴丸運輸という二つの事業をただ足し合わせたもので、経営は改善の兆しを見せませんでした。
抜本的な組織刷新の必要性を痛感した大輔は、まず取締役の叔父である実次に退任を頼み込み、経営陣が率先して血を流す改革を断行しました。
また、従来は年1回の決算を行うだけの「どんぶり勘定」でしたが、利益と経費の流れを明確にするため、日次・月次管理への導線変更に取組みました。
若手社員、経理職員、現場ドライバーなどを中心に賛同を得て鶴丸海運の業務は劇的に変わりました。
まるで分厚い氷を突き進む砕氷船のように、業務の改善が着実に推し進められたのです。
血のにじむような努力の甲斐あり、「再建3カ年計画」を2年半で達成し、経常損益の黒字転換を果たしました。

黒字転換に成功したことを受け、セメント専用船の拡充を推し進めました。
1955年時点の鶴丸汽船の輸送実績では、石炭が65万2,000トンであるのに対して、セメントと石灰石が合計で10万5,000トンと、6分の1程度しかありませんでした。
しかし、10年後の1965年の輸送実績では、石炭77万トンに対して、セメントと石灰石の合計が76万9,000トンと、同規模の取扱量にまで伸長しました。
全社一丸となって組織改革を果たし、石炭事業の一本足打法から、時代の変化に即した事業多角化への移行に成功したのです。

1970年~

事業の多角化や物流サービスの更なる充実化に向けて、造船会社、観光事業、港湾土木事業の開始や福岡市への営業所開設など、様々な試みをおこないました。

鶴丸航空観光の営業所

【経済の混乱と停滞】

1981年~

「静脈物流」とは、原材料から工場での製品化を経由して消費者へ商品を運ぶ「動脈物流」の対義語で、商品や廃棄物のリサイクルや回収処分を行う物流の流れを指します。
当時、廃棄物の輸送という「静脈物流」事業に目を向けた同業他社は殆どありませんでした。
鶴丸海運はそこに目を付けたのです。
行政への粘り強い交渉もあって無事に産業廃棄物の海上輸送の認可を受け、北九州市での廃棄物の輸送事業を開始しました。
誰も目を向けなかった廃棄物輸送にいち早く取り組むことで、鶴丸海運は静脈物流企業の先駆けとなり、環境に優しい企業としての地位を確立したのです。

廃棄物を輸送するボックスパージ

また、当時は20世紀最大の発明とも言われるコンテナの誕生により、物流業界では全世界的にコンテナ輸送のニーズが高まりを見せていました。
全世界的にコンテナという鉄の箱の規格を統一した、いわゆる「コンテナ革命」です。
コンテナ革命によって、船での海上輸送・港での荷役・陸上でのドレー輸送を迅速かつ安全に行えるようになり、物流に激震的な合理化をもたらしました。
こうしたコンテナ輸送の需要を取り込むため、鶴丸海運はコンテナでの輸配送サービスに特化したCFS(コンテナフレイトステーション)を建設しました。

福岡市東区倉庫

コンテナ輸送のニーズ取組みと同時期に、他のコンテナよりも優先的に荷役や通関を行い、即日又は翌日の内に配送に回すホットデリバリーサービスの提供を開始しました。
このホットデリバリーサービスは、季節もので短期決戦を行うアパレル業界で良く利用されます。
ECと即日発送が定着した現代でこそ常識のサービスですが、当時の門司港地区では対応できる業者がほぼおらず、当社が草分け的企業となりました。
その結果、最盛期の通関件数が門司港運、門菱港運に次いで、門司地区で第三位に食い込みました。

1992年

鶴丸裕介が三代目社長に就任し、バブル経済に左右されない実直な手腕で、企業体力の充実を堅実に取り組みました。
内航海運業ではチャーター船の拡充を図り、港湾運送事業では新門司倉庫や今治営業所の開設等を行いました。

三代目社長の鶴丸裕介

1998年

鶴丸俊輔が四代目社長に就任し、社会に貢献し続けるという目的を果たす為に、物流サービスへの充実と新規物流事業に取り組みました。

四代目社長の鶴丸俊輔

経営のバトンタッチを見守るように、1999年8月16日二代目社長の鶴丸大輔は肺炎にて死去しました。
享年80歳。敗戦後のゼロから出発し、高度経済成長やオイルショック等の波濤を超えて、大輔は鶴丸海運の舵取りを行ってきました。
鶴丸海運の伝統、文化は大輔の試行錯誤の足跡そのものです。

【国際化、そして物流サービスの充実へ】

新規需要の取り込み、海外への事業展開などお客様への物流サービスの充実に俊輔は取り組みました。
合わせて、人事制度
、中期経営計画、誤出荷防止体制や全件事故報告体制の強化など、ソフト面でも改革を図りました。

2003年~

創業より悲願であった、外航海運事業の取組みを行います。
5つのハッチと荷重30トンのクレーンを4基搭載し、遠洋航海も可能な大型バラ積み船「PHOENIX ISLAND」を購入しました。
載貨重量2万8,665トンをフル活用し、アメリカ~日本での小麦や肥料輸送に従事しました。

PHOENIX ISLAND

翌年5月には、内航セメントタンカー菱東丸を外航に転換してBLUE CRANEと命名し、中国青島港、連雲港等へのセメント輸送に活躍しました。

外航セメント船 BLUE CRANE

2004年

門司地区のホットデリバリー企業として一日の長があった鶴丸海運ですが、近い将来、関東や関西などの大消費地に近い港湾が同様のサービスを提供し始めて鶴丸の仕事がなくなる、という危惧がありました。
若手社員が主体となって、競合が少なく需要の見込めた危険物の保管と通関事業の開始を提案し、事業への参入が決定しました。
12月、倉庫建設費で1億円を投資する大プロジェクトとして、門司区田野浦地区に危険物倉庫4棟を建設しました。
鶴丸海運は、知名度もない新規参入業者であるのに対して、危険物を取扱う化学品メーカーは大手企業ばかりでした。
安全性を説明するために分厚いマニュアルを掲げて営業をかけ、地道に案件を獲得し、信頼の蓄積に成功したのです。
危険物倉庫は事業3年目で黒字転換し、その後も収益が堅調に推移するようになりました。

危険物倉庫

2007年

得意先の推薦を受け、海外事業への取組みを強化するべく、タイで鋼材製品を取扱う「鶴丸ロジスティクスタイランド(TLT)」を設立しました。
日本から輸入した鋼線を工場へ納品するという案件に対して、TLTはただ商品を右から左へ流すのではなく、輸入時に発生した傷、錆、曲がりなどを修復して納品するという付加価値を提供したのです。
また、従来は9コイルしか積載できなかったトレーラーに15コイルまで積載できる積み方を実施し、大幅なコストダウンを実現させました。

タイのスタッフとトレーラー

2014年

インドネシアに「鶴丸ロジスティクスインドネシア(TLI)」を設立し、海外事業強化への取組みを伸長しました。
インドネシアでもタイ同様に付加価値を付けた高品質な物流サービスを提供し、事業の発展に成功しました。
日本でも通用する低価格・高品質・高機能として通用する物流サービスをタイでもインドネシアでも提供し、鶴丸海運は一歩ずつ確実に海外事業を展開していったのです。

インドネシアのスタッフ

同時期、国内事業に目を向けると、ガット船、貨物船、セメントタンカーを購入するなど積極的な事業投資を行い、内航船団を大幅に強化しました。

ガット船「遠賀」

貨物船「折鶴」

セメント船「英彦山丸」

2015年

2021年の創業100周年を記念するプロジェクトとして、NTB(新鶴丸ビル建設)プロジェクト、HTB(100年史制作)プロジェクト、STB(基幹システム再構築)プロジェクトが始動しました。
この時に鶴丸海運が抱えていた大きな課題として、物流に必要な重機や機材などのハード面は時代にキャッチアップしていた一方で、システムや社内制度や人事関係のようなソフト面では取組みが遅れている、というものがありました。
周年記念プロジェクトは安易に外部委託へ頼ることなく社員教育の場として、メンバー一丸となって積極的にプロジェクト知識の深化と達成に向けてのアプローチを行いました。

2016年

視界や操作性が良く、バラ積貨物、スクラップ貨物、粒状貨物などの荷役に対応し、迅速に積み替え作業を行うことができる港湾専用の大型クレーンTL1100を導入し、荷役サービスの対応力を高めました。

粒状貨物の荷役を行うTL1100

平成不況で日本の経済成長が頭打ちとなり先行きが見通せない中で、俊輔は、ただ事業を多角的に行うのではなく、物流事業の中での多角化と充実化に向けて暗中模索し、鶴丸海運の舵取りを行ってきました。


【永続的な発展を目指して】

2020年

2015年より指導したNTB(新鶴丸ビル建設)プロジェクトの成果として、拡張性、柔軟性、IT完全対応、ゆとりと癒しといったコンセプトの下、12月に新鶴丸ビルが建設されました。
席を固定しないフリーアドレス制を採用し、館内どこでも従業員が業務に集中できる環境を整備しています。
また、STB(基幹システム再構築)プロジェクトでは、会社の基幹となる会計システムを全社的に再構築することで、経営分析への応用、経理業務の簡素化、ペーパーレス化などに寄与してます。

新本社ビル

2021年~

2021年8月、私たち鶴丸海運は、実に多くの方に支えられて創業100周年を迎えることが出来ました。
しかし、鶴丸海運は航海をやめることはありません。
来る新時代に向けて、社会に貢献し続けるという創業以来の「灯火」を掲げ、鶴丸海運は一路出帆したのです。

2022年6月に久保泰一郎が五代目社長に就任しました。
お客様や社会への貢献を果たし、
鶴丸海運が更なる発展を遂げるよう企業経営を進めています。

今後も飽くことなく、より良い物流サービスの提供を通して、お客様に貢献して参ります。

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